特集
自治体防災担当者による “現場からの提言”(第7回)
第7回目は、東日本大震災後の2012(平成24)年から津波情報伝達システムの復旧拡充整備に携わり、災害情報の伝達に尽力しておられる宮城県 仙台市 危機管理室 減災推進課 課長 阿部和彦氏にお話をうかがいました。
スペシャルインタビュー
- 行政と市民の皆様、メーカーさんが防災・減災への取り組みに向かって、気持ちをひとつにする仕組み作りが重要です。
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仙台市 危機管理室
減災推進課長 阿部 和彦(あべ かずひこ)氏
- -阿部さんの経歴を教えてください。
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平成23年3月に東日本大震災が起こったときは、津波被害が甚大だった宮城野区の消防署職員でした。区の災害対策本部にて、警察や区役所、地域の方々と消防をつなぐ橋渡し役として対応しました。当時の現場を全て見ているので、どのようなことがこのエリアで起きていたのかは克明に覚えています。
同年の5月末に消防局の総務部へ異動となり、議会対応などを担当しました。震災が起こってからさまざまな課題が噴出して、議会でも大変多く取り上げられました。
今後の対策を考えていくというタイミングで、翌24年に減災推進課へ異動。今年で5年目になります。
異動当初は応急対策の係長として、TOAさんをはじめとするメーカーさんと連携しながら、津波情報伝達システムの復旧・拡充整備を担当していました。震災前から津波を知らせるシステムはできていたのですが、残念ながら50基ある屋外拡声装置のうち、38基が津波に流されてしまいました。そのため、しばらくは残る12基だけで伝達していました。その後、浸水エリアは、我々が当初考えていたエリアをはるかに凌駕していたため、屋外拡声装置を震災前の50基に復旧するとともに、東日本大震災で浸水域になった場所に新たに設置するという事業に携わりました。 - -東日本大震災発生当時、とくに重視されたことは?
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震災が発生した14時46分、私は市役所にいたのですが、情報を得るためにいったん消防署へ戻り、すぐに宮城野区役所へ向かいました。とにかく尋常ではない揺れで、事務所もめちゃくちゃで足の踏み場もないような状況だったので、倒壊した家屋に人が閉じ込められていることも考えられましたし、火災が発生している可能性もありました。仙台市内がどのような状況になっているのかを把握し、それに対処するためにどの部門をどのように動かすかということしか考えていなかったです。
そのようなとき、テレビのモニターに映し出されたのがあの津波の映像でした。まさか仙台ではないだろうと思っていたら、聞いたことのある地名をアナウンサーが連呼していて、初めて「これはうちのことなんだ」と認識したんです。
そこから3~4日の間は、とんでもない数の電話がかかってきました。ご承知のとおり、海岸部は町ごと流されて壊滅状態だったので、本当に想像を絶することが起きていました。その中で最初の3日間は、一人でも多くの市民の命を助けることに全力をかけていました。そのための情報収集に重きを置きました。少しずつ状況が落ち着いてくると、今度は余震の数が増え、津波警報が出たり解除されたりを繰り返すようになったので、不眠不休で活動している職員に向けて生きた情報を正確に伝えることに専念しました。消防職員等は、かなりの人がとり残されていたり亡くなっていたりする、リスクの高い現場で活動していました。彼らが命を落としてしまっては、助かる命も助からない。あの時はNHKで気象情報や津波警報・注意報、緊急地震速報などが頻繁に発表されておりましたので、それらの情報を活動中の職員に伝達し、後方からサポートしていました。
市民の命、活動している職員の命を守ることが、現場に行っていない者の務めであると私は認識しています。本当は、私も消防職員なので現場に行って瓦礫をかき分け、活動したいという思いでしたが、残念ながらそれは自分の任務ではない。自分の立場でできることを考えたところ、情報を集めて的確に伝えることが私の任務だと思ったのです。 - -震災前に準備してきた対策について、震災後に感じたギャップをお聞かせください。
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宮城県では、30~40年に一度「宮城県沖地震」が繰り返し起こっています。ほぼ100%の確率で発生するものと認識されております。前回起こったのは昭和53年6月12日。その時もかなりの死者が出ましたし、建物被害なども甚大だったため、「次の宮城県沖地震では死者ゼロ・炎上火災ゼロを目指そう」ということになり、仙台市全体を挙げて防災対策に取り組みました。
昭和53年の宮城県沖地震では、ブロック塀が倒れて圧死する方が多数おられたため、仙台市ではブロック塀を撤去したり、生垣を作るための費用を補助して、死者をゼロにするための活動に取り組んでいました。同時に小学校や市役所庁舎などの耐震化も行い、東日本大震災の前までにはほとんど完了していました。自主防災組織の結成率も100%に近く、さらには訓練も繰り返し行って、万全の対策で次の災害に向けて準備していました。
東日本大震災が発生したのは、「いつ次の宮城県沖地震が来てもおかしくない」と思っていた頃でした。しかし、その来たるべき地震というのが、蓋を開けてみるとマグニチュード9.0の東日本大震災。我々が今まで一生懸命備えて、何とか被害を軽減させようとしていた宮城県沖地震の、何十倍もの規模でした。
津波についても、宮城県沖地震で最大のものが来たときにも情報を伝達できるようにと、津波情報伝達システムを作っていました。しかし、地震と同様に津波の規模も2倍、3倍どころではない想像を絶するものだったので、訓練通りにはいきませんでした。屋外拡声装置は半分以上流されてしまい、ソフト・ハード両面においてまったく足りていなかったということで、忸怩たる思いがあります。 - -東日本大震災を経験した自治体として、今後防災の取り組みをしていく上での一番のポイントは?
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仙台市の職員は約1万人ですが、東日本大震災では、全員がフルで働いてもまったく対応できませんでした。大規模災害が起こったときには、人員が足りないのです。そのため、市民や県民の方々に「行政と一緒になって災害に臨むんだ」という姿勢で備えていただくことが不可欠だと、強く認識しました。
震災後は防災セミナーや訓練が増えたのですが、そうした機会に敢えて意識して行政の限界をお伝えするようにしています。以前は「何かあれば行政が全部やりますよ」というスタンスでしたが、実際に東日本大震災の時には出来なかったわけですから。我々が持っている設備にもマンパワーにも限界があるので、市民の方々のお力をお借りしなければ災害・応急対策は進んでいかないのだということを、さまざまな場面でお話しさせていただいています。最初のうちはやはり、「それは行政の仕事じゃないか」といった反発の声も多くありました。しかし、仙台市の避難所がパンクしてしまったという出来事もあって、市民の方々の意識も「行政ばかりをあてにしていたら避難所運営もままならない」という感じに変化してきました。少しずつではありますが、市民の皆さんの理解も進んでおり、良い関係性を築けてきています。
また、自主防災活動の中心的な役割を担う、仙台市地域防災リーダー(SBL)の養成事業にも取り組んでいます。行政と地域住民の方との間の橋渡し役として、活躍していただいています。防災関係のシンポジウムなどにもお呼びして、地域の取り組みの成功事例・失敗事例をお話していただくのですが、そうすると他のリーダーが自分の地域に持ち帰って実践されるので、市全体での相乗効果が生まれていると思います。
一番のポイントはやはり、行政が地域の方々と連携し、一緒に災害に対応して行くための仕組みや体制を構築しておくことです。 - -津波情報伝達システムについても、地域の方々と連携して取り組まれてますよね?
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毎週日曜日の12時に、試験放送を行っています。近隣に注意深く聞いてくださる方がいて、聞こえが悪いとか、今回は鳴っていなかったといった情報が上がってくるんです。そこで、我々から情報提供者の方に連絡を取って一緒に現場へ行き、実際にスピーカーを鳴らしてみます。その場で聞こえ方を検証するので、手間はかかりますが非常に納得していただけます。
屋外拡声装置というのは、屋外にいる人向けの発信なんですね。最近の住宅は高気密高断熱なので、二重サッシの窓を閉め切ってテレビをつけたりしていたら、放送が聞こえるわけがない。そのために、防災用行政無線のスピーカーがあるからといって安全だと思わず、異変を感じたら自ら積極的に情報を収集してくださいと、繰り返しお願いしています。
また、津波避難訓練を毎年行っているのですが、そのときは本番通りにすべてのスピーカーを鳴らします。参加者の方からさまざまなご意見をいただきますし、行政の職員も何十人も参加していますので、彼らにもちゃんと聞こえたかどうかを確認します。それで発覚した弱点を、次の改善につなげていくようにしています。
たとえば、以前の放送では職員の声の録音による音源を使っていたのですが、何を言っているのか聞き取りづらいという声がありました。そこで、プロのアナウンサーにお願いし、スタジオでの録音音源に切り替えたところ、劇的によく聞こえるようになりました。
さらに、津波注意報等が出たときには、コンビナート地区や下水処理施設の方に電話をして、屋外拡声装置からの放送が聞こえているかどうかの聞き取りも必ず行っています。
情報伝達が遅れたために何千人もの市民が逃げ遅れて亡くなってしまったとなれば、もう取り返しがつかない。とにかく最悪の事態を想定しながら、石橋を叩いて渡るように、万が一災害が起きてもきちんと短時間で対処できる仕組み作りに主眼を置いています。 - -今後の活動についてお聞かせください。
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東日本大震災は地震と津波でしたが、ほかに風水害の心配もあります。平成27年9月の関東・東北豪雨では、茨城県で大きな災害がありましたよね。あのときの線状降水帯が仙台市にもかかり、河川の一部が氾濫して、死者こそ出なかったもののかなりの被害がありました。土砂災害やゲリラ豪雨、浸水などについて伝達するのも我々の責務。津波対策ももちろん大事ですが、風水害にも対応できる情報伝達の仕組みを真剣に考えなければならないと強く認識しています。現在は、コストを踏まえながら方法を模索しているところです。
町内会の集まりにも度々呼ばれるのですが、いまなお残る課題を切々と訴えられます。そういったお話を聞いていると、5年前の想いが蘇ってきます。「もう5年経ったから終わり」ではなくて、「これからの5年先、10年先を見据えた防災対策をやらなければならない」と強く感じます。
我々が一番主眼を置きたいのは、やはり情報伝達。単に「伝える」ではなく、しっかりと「伝わる」情報伝達の在り様について取り組んでいきたいと考えています。
そのため市民の方々と向き合うときには、失敗事例もお伝えするようにしています。時間はかかりますが、正直に伝えることで市民の方々も理解してくださり、一緒になって取り組んでくださります。行政と市民が同じ意識にならないことには、情報もうまく伝わらないと思います。
また、地域の特性によって求められる情報もまちまちなので、ニーズに応えるためのインフラ整備も必要です。限られた予算の中ではありますが、議論を尽くしながら、ソフト・ハードの両面で最善の方法を模索しています。 - -全国の防災担当者の方にエールをお願いします。
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津波を知らせるシステムを作ろうということになって、完成したとします。皆さん、「これで大丈夫」と安心されますよね。我々もそうでした。しかし、システムができあがってからが真のスタートです。ここから、メーカーさんとの本当のお付き合いがはじまります。機械は完璧ではありません。メーカーの方と“顔が見える関係”を構築しながら、常に意見を交換し合い、より精度の高いシステムに仕上げていくという取り組みがものすごく大切だと思います。
我々のシステムでも一度、放送されないというトラブルがありました。このようなリスクを軽減するため、システムを構築したメーカーさんに「一緒に事故を未然に防止するための勉強会をやっていきませんか?」とお声がけしたところ、快く引き受けていただけました。今では忌憚のない意見を言い合える、とても良い関係が構築できています。
このようなメーカーの方との取り組みを、全国の防災担当の皆様も検討されてはいかがでしょうか。システムがある限り、継続して検討する場を設けていれば、新しいスピーカー等に更新するときにもスムーズに移行できます。メーカーさんとしては少し負担になるかもしれませんが、自治体とメーカーの両者にとって得るものが大きいと考えます。
仙台市の経験を成功例も失敗例も包み隠さず他の自治体の方々にお伝えすることで、災害情報の伝達や防災・減災の取り組みを工夫する動きが広がっていけば、結果的に自治体や日本国にとってプラスになるものと考えます。このような議論がより活発になり、全国に広がっていってほしいと思います。
その他のQ&A
Q. 東日本大震災発生当時のインフラ状況についてお聞かせください。
A. 仙台市内はすべて停電で信号もまったく動きませんでした。庁舎や公共施設は自家発電をもっていましたので、3日も4日もというわけにはいきませんが、発災直後に関しては最低限の電気を使うことができました。
Q. 東日本大震災発生当時の情報収集手段として、主に何を使用されましたか?
A. 無線を主として用いていました。消防には消防救急無線があり、仙台市の防災行政用無線(デジタル移動通信系)、それから内線電話も使用しました。区の災害対策本部には自衛隊も警察も詰めていましたので、それぞれ情報を、流すというように交通整理がされていました。
Q. 市内の企業と具体的な防災対策を進めていたら、その取り組みを教えてください。
A. 帰宅困難者への対応について協力いただいています。発災当時も仙台駅周辺で帰宅困難者がかなりいらっしゃったので、一斉帰宅の抑制とか、一時滞在場所として受けいれていただく協定を結んでいます。その他に、燃料が枯渇した時に燃料を供給いただけるような協定を結んだり、そのほか食糧であったり物流であったり、とにかくさまざまなサポートをいただいています。
Q. 燃料供給の取り組みについて、もう少し詳しくお聞かせください。
A. 公共施設で持っている燃料タンクの容量もまちまちです。燃料が枯渇しないように、供給量を細かく設定して対応するなどの協定を結んでいます。消防局では、自家用給油取扱所、簡単に申しますと自前のスタンドを震災後に整備しました。緊急自動車等の燃料確保の取り組みで、消防車、救急車などの車両が災害時にスタンドが稼働していなくても、自前の給油設備で燃料を確保しようということで整備しました。
Q. 情報を受け取る側の意識を風化させないために、どのような対策を行っておられますか?
A. 例えば津波情報伝達システムでは毎週日曜日に試験放送を行い、近隣の方々に放送内容を確認してもらっています。意識しているのは伝えることではなく、“伝わる情報伝達”の在り方です。発信したから終わりではなく、発信した内容がきちんと受け手に伝わっているか、伝わっていない場合は情報の受け入れ側の意識として、自分からも情報を取りに行ってほしいということをさまざまな場面でお話しています。夜に寝ていて大きな揺れを感じたら、テレビをつけたりしてある程度の情報を集めて欲しいと考えております。今は震災の影響もあり、意識が高いので、それを受け入れていただいています。私たちも一生懸命情報を伝達できるように努力し、市民の皆さんも情報を集める努力を欠かさない。行政と市民が同じ意識にならないと情報伝達はなかなかうまくいきません。双方の防災意識の底上げに留意しながら、取り組んでいる最中です。